芦毛の怪物・オグリキャップ
私が馬に夢中になったきっかけを作ったのは、他でもないこのオグリキャップでした。制した重賞は12、うちGⅠは4勝と、ディープインパクトやウオッカに比べると見劣りする成績ですが、オグリが起こした奇跡の数々やその落ち着いた走りは現在でも高い人気を誇っており、第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったと言われています。スパークリーク、イナリワンと共に「平成三強」の一頭であり、「芦毛の怪物」というあだ名がついたほどの強さを誇る馬でした。

誕生の経緯
父・ダンシングキャップ、母・ホワイトナルビーの間に生まれました。ホワイトナルビーは競走馬時代から馬主の小栗孝一が所有していました。1984年のホワイトナルビーの交配相手として選ばれたのがダンシングキャップでした。ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは突然変異で生まれた、もしくはダンシングキャップの父であるネイティヴダンサーの隔世遺伝で生まれた競走馬だと主張する人もいるほどでした。またダンシングキャップの産駒には気性の荒い競走馬が多かったことを理由に当初は反対意見が多かったそうですが、最終的には小栗の提案が実現する形となりました。オグリキャップは1985年3月27日深夜に誕生しました。誕生時には右前脚が大きく外向しており中々自力で立ち上がることが出来なかったそうです。

経歴
笠松競馬時代
オグリキャップは1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入ります。同年5月19日にデビュー。デビュー戦ではマーチトウショウに負け、2着。その後2連勝しましたが4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れます。しかし5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成しました。こうしたオグリの活躍に、同馬を購入したいという申し込みや中央移籍を進める声が多数上がるようになります。しかし馬主のオグリはあくまでも笠松競馬での活躍を望んでおり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていました。これに対し、佐橋五十雄は「このまま笠松のオグリキャップで終らせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れるべき」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせたほうが良い」と判断し、佐橋に売却することを決めました。こうしてオグリキャップは中央競馬へと移籍することが決まったのです。

中央競馬へ移籍
中央競馬でのオグリキャップのデビュー戦は重賞ペガサスステークスに決まりました。地方からの移籍馬の場合、大半はレベルの高い中央では通用しない場合が多く、緒戦から重賞へのチャレンジは無謀なのではと疑問視する声も多くありました。しかしオグリキャップはそのような外野の声を撥ね退け、一番人気のラガーブラックを3馬身も引き離す圧倒的な勝利を収めます。その走りは続く毎日杯でも健在で、最後方の位置からスタートしたにも係らず、第3コーナーで馬群から抜け出しゴール直前で先頭に立ち、見事優勝しました。中央移籍後、いきなりの重賞2連勝に多くの競馬関係者が唸りを上げました。ここからオグリキャップの快進撃が始まります。オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、皐月賞や東京優駿には出走することが出来ず、代わりに京都4歳特別とニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走します。この二つのレースでは、他馬の追随を許さない圧倒的な強さを見せ、勝利を飾ります。続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦でしたが、これも難なく勝利します。この時のタイムは中京競馬場芝2000mのコースレコードでした。またこの勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成しました。さらに3ヶ月の夏休み後に出走した毎日王冠でも優勝し、中央移籍後無敗の6連勝を飾ったのでした。この頃からオグリは「怪物」と呼ばれるようになります。

天皇賞・タマモクロスとの対決
毎日王冠の後、オグリキャップは天皇賞・秋への出走が決まりました。この天皇賞には同じく芦毛で前年秋から7連勝を続けている古馬・タマモクロスも出走することが決まっていました。この世紀の芦毛対決には大変注目が集まり、オグリキャップはタマモクロスをしのいで一番人気に支持されます。しかしレースでは、馬群のやや後方につけて追い込みを図り出走馬中最も速い上がりを記録したものの、先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことが出来ず、2着に敗れてしまいます。この結果に馬主の佐橋はリベンジしたいという思いを強く抱き、オグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれました。レースでは先行策をとり、3・4番手という好位置につきますが、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められてしまい、ペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れます。この時の騎手であった河内に陣営は不満を持ち、次の有馬記念は岡部幸雄騎手に依頼。岡部はこれを「1戦限り」という条件つきで受諾しました。タマモクロスはこの有馬記念での引退が決まっており、ここで勝てなければリベンジをする事が不可能となることもあり、関係者の気合の入れようは相当なものでした。レースでは終始5・6番手の位置をキープし、第4コーナーで前方への進出を開始すると、直線で先頭に立ち見事優勝。2着のタマモクロスに半馬身差をつけての完勝でした。最後の最後に雪辱を果たし、この勝利でGⅠ競走初制覇を達成。オグリキャップは同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出されています。

悲劇と復活
オグリキャップの活躍や武豊の台頭で、競馬は空前の盛り上がりを見せるようになっていきました。これからの活躍が熱望される中、オグリキャップに悲劇が訪れます。馬主の佐橋が脱税容疑で逮捕されてしまったのです。加えてオグリ自身にも右前脚の球節捻挫という怪我を負い、長期離脱を余儀なくされました。復帰後、最初のレースであるオールカマーで、オグリは勝利を挙げます。ここから4ヶ月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「“怪物伝説”を決定的にする過酷なローテーション」が始まります。オグリが次に出走したのは毎日王冠でした。このレースではオグリキャップ、イナリワン、メジロアルダン、ウインドミルが横一列になっての叩き合いとなり、ゴールの瞬間に僅かハナ差でオグリキャップが勝利を収めるという劇的な勝ち方をしたのです。この勝利でオグリキャップは史上初の毎日王冠連覇を達成しました。「オグリキャップのベストバトル」と言われているこのレースに続き、天皇賞でもその期待はオグリに集められました。しかしこのレースでは武豊騎乗のスーパークリークを交わすことが出来ずに2着に終わります。次のレースはマイルチャンピオンシップでした。このレースで騎乗した南井は、天皇賞では自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は絶対に勝たないといけない」という決意がありました。そんな中レースでは、第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みますが、進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間には到底届かないだろうという差が生まれました。レースを見ていた誰もが、「またオグリが負ける」と確信していましたが、直線に入り進路を確保したオグリキャップはそこから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定しました。南井は勝利騎手インタビューで「オグリキャップに救われた」と話し、涙を流しました。

不調と引退
マイルチャンピオンシップでの劇的な勝利後、三ヶ月のうちに6つのレースに出走するという過酷なローテーションの影響もあってか、オグリキャップはスランプに陥ります。ジャパンカップでは2着、有馬記念では5着、宝塚記念では2着という結果に終わり、更に宝塚記念のレース直後に両前脚に骨膜炎を発症してしまいます。陣営はかねてからの目標であった天皇賞・秋の出走を目指して調整を行いましたが、天皇賞での結果は6着。続くジャパンカップでは11着と大敗してしまいます。陣営はオグリキャップの引退を決意。引退レースとして有馬記念への出走を決めましたが、ジャパンカップの結果を受けてこのまま引退すべきとの声が多く上がり、馬主の近藤に宛てた脅迫状が日本中央競馬会に届く事態にまで発展しました。「オグリは終った馬」と言われるようになります。

最後のレース
オグリの時代は終ったといわれながらも、その引退レースである有馬記念当日には、17万人を超える観客が集まりました。オグリキャップはファン投票では1位を獲得したものの、単勝馬券のオッズでは4番人気で、前走の大敗の影響が顕著に現れていました。最後のレースの騎手には武豊が選ばれました。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通り前方への進出を始めます。全盛期のオグリキャップであれば、ここから1人勝ちの逃げに興ずるところですが、中々そうはいきません。オグリキャップは最終直線残り2ハロンで先頭に立ちますが、メジロライアンとホワイトストーンが内から猛追してきます。場内は観客の悲鳴に近い絶叫に包まれます。メジロライアンが4分の3馬身まで迫るなか、オグリキャップは先頭でゴール。2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾りました。限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は、「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後にスタンド前でウイニングランを行った際には観客の「オグリコール」が中山競馬場に響き渡りました。こうしてオグリキャップは有終の美を飾ったのでした。

引退後
引退後は種牡馬となり、北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで過ごしていました。2007年に種牡馬を引退し、功労馬として引き続き優駿スタリオンステーションにて繋養されていました。一般公開もされており、観光名物となっていましたが、2010年7月3日一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいるのを発見します。転倒した際に右後肢脛骨を複雑骨折しており、手の施しようがなかったため安楽死の処置が執られました。その死は日本のみならずイギリスのレーシングポストなどでも報じられました。

競走成績
1987年5月19日 3歳新馬・・・2着(青木達彦)
1987年6月2日 3歳イ・・・1着(高橋一成)
1987年6月15日 3歳イ・・・1着(青木達彦)
1987年7月26日 3歳イ・・・2着(高橋一成)
1987年8月12日 3歳イ・・・1着(高橋一成)
1987年8月30日 秋風ジュニア・・・1着(安藤勝己)
1987年10月4日 重賞・ジュニアクラウン・・・1着(安藤勝己)
1987年10月14日 重賞・中京盃・・・1着(安藤勝己)
1987年11月4日 重賞・中日スポーツ杯・・・1着(安藤勝己)
1987年12月7日 師走特別・・・1着(安藤勝己)
1987年12月29日 重賞・ジュニアグランプリ・・・1着(安藤勝己)
1988年1月10日 重賞・ゴールドジュニア・・・1着(安藤勝己)
1988年3月6日 GⅢペガサスステークス・・・1着(河内洋)
1988年3月27日 GⅢ毎日杯・・・1着(河内洋)
1988年5月8日 GⅢ京都4歳特別・・・1着(南井克巳)
1988年6月5日 GⅡニュージーランドトロフィー4歳ステークス・・・1着(河内洋)
1988年7月10日 GⅡ高松宮杯・・・1着(河内洋)
1988年10月9日 GⅡ毎日王冠・・・1着(河内洋)
1988年10月30日 GⅠ天皇賞・秋・・・1着(河内洋)
1988年11月27日 GⅠジャパンカップ・・・3着(河内洋)
1988年12月25日 GⅠ有馬記念・・・1着(岡部幸雄)
1989年9月17日 GⅢオールカマー・・・1着(南井克巳)
1989年10月9日 GⅡ毎日王冠・・・1着(南井克巳)
1989年10月29日 GⅠ天皇賞・秋・・・2着(南井克巳)
1989年11月19日 GⅠマイルチャンピオンシップ・・・1着(南井克巳)
1989年11月26日 GⅠジャパンカップ・・・2着(南井克巳)
1989年12月24日 GⅠ有馬記念・・・5着(南井克巳)
1990年5月12日 GⅠ安田記念・・・1着(武豊)
1990年6月10日 GⅠ宝塚記念・・・2着(岡潤一郎)
1990年10月28日 GⅠ天皇賞・秋・・・6着(増沢末夫)
1990年11月25日 GⅠジャパンカップ・・・11着(増沢末夫)
1990年12月23日 GⅠ有馬記念・・・1着(武豊)
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